人気漫画『鬼滅の刃』では「鬼を倒す・殺すには首を斬る必要がある」とされています。
しかし上弦の参の鬼・猗窩座(アカザ)は首を斬っても即死するどころか、復活・再生しようとしていました。
なぜ猗窩座は首が切れても死なない状態になったのか?をまとめました。
【鬼滅の刃】猗窩座(アカザ)首が切れても死なない理由
猗窩座(アカザ)以外にも「首を斬られると死ぬ」という弱点を克服かけた鬼は上弦の壱。克服をしているのは鬼舞辻無惨です。
「首が切れても死なない理由」とほかの鬼と何が違うのでしょうか?
鬼舞辻無惨の血が濃い鬼は首の弱点を克服しやすい?
鬼の頭・すべての鬼の根源である鬼舞辻無惨は既に首が切れても死なない状態になっていて、首の弱点を克服しています。
『鬼滅の刃』の作品内で、鬼舞辻無惨の血を与えられた鬼たちは鬼舞辻の細胞を通じて情報を共有できたり、遺伝子的な記憶のつながりがあったりします。
そのため、既に首の弱点を克服した鬼舞辻無惨の血が濃い鬼・血を多く取り入れることができた鬼=上弦の鬼でもトップクラスの鬼たちは、鬼舞辻同様に首の弱点を克服しやすい体質になっているーーと考えられます。
しかし、上弦の弐の鬼・童磨(どうま)は復活・再生する兆しは全くないまま死に、童磨より格下の猗窩座は「何かになりかけた」のです。
首の弱点を克服して「何かになろうとする」には、他の要素の違いがあると見て取れます。
戦いへの執着心
猗窩座の場合は弱点を克服しかけましたが自害します。
また上弦の壱・黒死牟(こくしぼう)も刃に映し出された己の醜い化け物と化した姿に失望して身体を保てなくなり死に至ります。
首の弱点の克服した理由は2人の共通点である「戦いへの執着心」によるものと考えられます。
一方の童磨は、感情を一切持たない鬼(人間)でした。戦いへの執着心すらも全くなかったために「何かになれる」ことすらなく消えました。
「戦いへの執着心」といった強い気持ち・心があることが、首を斬っても死なない=首の弱点を克服して何かになろうとする条件であることを裏付ける具体的な場面があります。
猗窩座は死の淵で懇意にしていた道場主とその娘・婚約者と向き合ったことで戦いへの執着心が薄れて潔く負けを認めたことで、己の体の再生を望まずに自害します。
黒死牟に至っては自分自身の「日本で一番強い侍になると思っていたなれの果ての醜い姿」に失望して戦いへの執着心がなくなり消滅していきます。
このことからも「戦いへの執着心」という強い気持ちこそが「何かになろうとした」ことへと繋がっています。
死への恐怖と命への執着心
さらに鬼舞辻無惨は常に「死への恐怖」つまり「命への執着心」が付きまとっていました。日に当たっても死なない体、本当の意味で永遠の命を求めていました。
一方の童磨は先述の通り感情がなく死への恐怖も全く感じないまま消えていきます。
結論:鬼舞辻に心身ともに近ければ近いほど頸の弱点が克服できる
- 鬼舞辻の血の濃さ(強さ)
- 戦いへの執着心
- 死への恐怖(命の執着心)
肉体的・精神的にも強く、鬼舞辻無惨に近ければ近いほど、頸の弱点が克服できる、という結論に個人的にはなりました。
【鬼滅の刃】アカザはなぜ頸から何かになりかけた?
醜い化け物のような鬼?
黒死牟は首を斬られて、自分自身が失望するくらいの醜い化け物のような鬼になってしまいました。
アカザがもし戦いへの執着心や強さへのこだわりを捨てられなかった場合には、同様の変化・進化を成し遂げていた可能性が高いです。
首の弱点を克服した鬼舞辻無惨のような鬼?
アカザが鬼として進化した場合、既に首の弱点を克服している鬼舞辻無惨のような鬼になった可能性も。
しかしながら個人的には鬼舞辻のような形態にもならなかったのでは?と思います。
個人的主観ですが、童磨が「アカザは女を食わなかった」と述べている場面から
①強さのために女性を食べていない
②アカザなりの矜持がある
ーーという鬼舞辻とは全く違った「強い気持ち」の持ち主のため、鬼舞辻のような鬼にはなり得ないのでは…と考えています。